元日本共産党草加市委員長・中嶋つかね公式ブログ

元日本共産党員の中嶋つかねです。 埼玉県草加市在住、76歳、在宅療養中。党の専従生活40年。党文京地区委員長や衆院候補、文京区長候補など歴任。党内民主主義の発展、官僚主義と保守主義の克服のために運動しています。市・県・国政のこと、日本共産党のことなど記します。

シリーズ日本共産党の党規約を深堀する ① 50年問題と日本共産党規約

「分派の禁止」「党の内部問題を党外に出さない」は、なぜ、どのような経過で党規約に明記されたのか>

 

50年問題―党中央委員会が分裂、民主集中制が破壊され、「分派」活動が激化、党組織は解体状態となった。

 

■1950年はどんな年だったか

1949年の中国革命の勝利(10月10日)などを契機に、アメリカが日本の占領政策を転換して、日本とアジアの侵略拠点とする為にこれに抵抗する日本共産党や民主勢力に対して米占領軍が大弾圧に乗り出した時期です。

 

■どんな弾圧政策だったか

・1949年4月―団体等規制例。共産党員とその組織を登録制にする。

・1949年8月―謀略的な松川事件が引き起こされ共産党員と労組団体役員が犯人にでっち上げられ大々的な弾圧の口実とされた。

・1950年6月6日―党中央委員会全員が公職追放された。

・1950年6月7日―アカハタ編集委員17人が公職追放された。

 

■当時の共産党内の状況は

・革命の方針、戦略を巡る意見の対立に加えて、徳田書記長の家父長的個人中心指導が強まり、とうの政策・方針の見主的な討論、検討も保障されない状況が生まれていました。50年問題の党の総括文書でのべられているように徳田の「党指導における粗暴で節度の欠ける態度」が一層甚だしくなり、これを糺そうとする意見は抑圧され、指導体制内の対立も深められていきました。これは、党が団結を固めて厳しい情勢に立ち向かうことがなによりの強く求められたその時に、その最大の保障となる民主集中制が蹂躙されていたことを意味します。

 

■1950年1月コミンフォルムによる日本共産党への批判―党内対立を激化させた。

コミンフォルム共産党・労働者党情報局)―1947年スターリン指導下のソ連など欧州9ケ国の共産党・労働者党が作った情報連絡機関。この組織の機関紙「恒久平和人民民主主義のためにが論評「日本の情勢について」を掲載。内容はアメリカ占領下で平和的に権力を握れるという党内に会った見解の誤り(米占領軍を人民解放軍と見なす)、当時の野坂参三政治局員(当時)の名をあげて公然と批判するというものであった。中国共産党もこれに同調した。

・批判の内容は、正しいものであったが、スターリンの外国の共産党・労働者への大国主義的、覇権主義的干渉の具体的な表れの一つだった。当時、日本共産党は日本における革命運動について、まだ自主的な立場をまだ確立していなかったためこの「論評」は、当時の党内の矛盾と対立を一層激しくさせました(「所感派」と「国際派」の対立と抗争)。

 

■1950年4月末、19中総で民主民族戦線をよびかける方針を全員一致採択後に分裂

(1) 袴田らは、突如、意見を異にする宮本顕治氏ら7名の中央委員を組織的に排除して、地下に潜り、連絡を絶ち、自分たちだけの分派だけの指導部を一方的につくるという最悪の分派活動に走った。

(2) しかも徳田らは、かれらの措置に批判的な党員や党組織を攻撃、排除するカンパニアをくりひろげました。分裂は全国に広がり、さまざまな大衆運動にももちこまれ、大衆運動の不統一や混乱をもひきおこしました。

(3)徳田らはさらに、ソ連や中国の誤った勧告にしたがって極左冒険主義の方針と戦術をとり、党を弾圧にさらし組織破壊をいっそう促進しました。

(4) 党はこの間、朝鮮戦争反対や、全面講和による真の独立を求めて果敢にたたかったものの、急速に国民の支持を失い、総選挙での得票は、1949年1月の298万票から、1953年4月には65万票へと激減してしまいました。この分裂のもとで、多くの党員が苦しみ、少なくない人びとが党を去っていきました。

 

■1955年、第6回全国協議会を開催。党の統一と団結を回復。

この分裂の苦い経験を克服し党の統一を回復するのは、1955年に開かれた第6回全国協議会を契機にしてでした。この過程でもソ連、中国の度重なる干渉をうけ、また党内には清算主義的な態度や、自由主義、分裂主義がうまれましたが、党はそれらをねばりづよく克服しつつ分裂の経験を自主的に総括し、第7回党大会で党の統一と団結を回復しました。そして綱領を決める第8回党大会を準備していったのです。これが、党の50年問題のあらましです。

 

■50年問題の教訓を生かす―自主独立の立場、組織路線の基本

(1)この50年問題の経験と、その誤り、日和見主義を克服するたたかいは、わが党が自主独立の立場を確立するうえで、きわめて重要な教訓をもたらしました。その後、党は1961年の第8回党大会で確定した綱領路線を堅持して、ソ連や中国などからくわえられた重大な大国主義、覇権主義的干渉とたたかい、き然としてはねのけてきました。

(2)同時に、50年問題は党の運営、党建設のうえでもきわめて重要な教訓をのこしました。第7回党大会の政治報告は、その主な内容として次の5点をあげています。

①いかなる事態にさいしても党の統一と団結、とくに中央委員会の統一と団結をまもることこそ、党員の第一義的任務であること

②そのために、家父長的個人中心指導や規律を無視する自由主義、分散主義をきびしく排し、いかなる場合にも規約を厳守し、規定されている大会その他の党会議を定期的にひらき、民主集中制と集団指導の原則をつらぬくこと

③中央委員会内部の団結とともに、中央と地方の団結のために最善をつくすこと

④党の分裂が大衆団体の正常な発展を破壊した経験にたって、いかなる場合にも党の内部問題を党外にもちださず、それを党内で解決する努力をすること

⑤党の思想建設と理論を軽視する風潮を一掃し、党中央を先頭に全党が政治的、理論的水準を向上させるために努力すること。

 

 

<深刻な教訓は党規約に、どう反映されたのか>

「現行の党規約が、その前文(四)で「全党の統一と団結こそは、党の生命であり勝利の保障である。したがって、すべての党員は、いかなる場合にも党の統一をかたく守らなくてはならない。意見がちがうことによって組織的な排除をおこなってはならない」とさだめているのも、つづいて「また党規律をみだし、決定を実行せず、統一をやぶり、派閥をつくり、分派活動をおこなうことは、党を破壊する最悪の行為である」と、分派の禁止をきびしく規定しているのも、50年問題のこうした教訓にたってのことです」

 

・「党規約の決定にあたって、党が国際的な経験も十分研究し批判的に摂取したことは、第7回党大会での報告にもあきらかです。しかし、分派の禁止をはじめとする民主集中制の原則が、なによりも党みずからの不幸な分裂の教訓を生かし、二度とふたたび同じような事態をくりかえさない党をつくるためにこそ確立されたものであることは、以上のべたことから明白です。」

・「東欧の事態につけこんでこの党の組織原則改廃をせまるものは、党の解体をこそねらうものです。いま民主集中制を放棄して派閥集団の寄り合い所帯になったブルガリアなどの党が、不当な反共攻撃の前に団結した統一的な反撃さえできないでいる事態をみても、そのことはあきらかではないでしょうか」

 

以上の歴史的な経過から、次の事は明白である。

「分派」とは➔党内に分派組織を結成し、党内で多数派を形成し党の組織破行為を行う事である。

「党内の問題を党外に持ち出さず、党内で解決する」とは➔大衆団体の民主的発展を守るための大原則である。 

 

中嶋束の『草加市議団問題、3市議除籍』に関する言動は

・党の決定に反対する行為―ではない

・党内問題を党外に持ち出す行為―ではない

・分派を結成し、多数派形成を企図する行為―ではない

 

①「3市議除籍」は、党規約第15条の党内民主主義を無視し、党規約第11条(除籍規定)に明記された「協議」を行わず、県委員長指示による緊急地区員会総会で「強硬確認」されたものである。そこでは草加市党の党支部と党員の「草加3市議の意見を直接聞きたい」の要求は一切無視された。

➔この「強硬確認」は、党の決定とは到底言えない。「強行確認」の撤回を党機関に求めることは、全く当然の事であり「党規約違反」に問われることは一切ありえない。ましてや「党の決定に従うべき」「少数は多数に従うべき」であるという党機関の主張は、全く成り立たない『妄言』である。

 

②党機関は、中嶋束が「草加市議団問題」「3市議除籍撤回」で
草加市党の党員に「メールで送信」
・東部南地区委員会所属の16名の地方議員に文書を送付した
・埼玉県党内の162名の地方議員に中嶋束他2名連名で文書を郵送したことをもって、「党決定に反対する見解」を流布したと。「党内問題を党外にもちだした」とも。この文書流布は、「党決定に反対する見解での多数派形成」(分派結成)を意図するものであると「断罪」している。
・そして党規律委員会は、中嶋束の8回にわたる訴願文書についてはすでに昨年9月25日に本人に党中央が直接回答済とし、回答への中嶋束の反論文書も黙殺してことごとくもうすんだ事としているのである。

なぜ、中嶋束はメールで送信したのか、郵送をしたのか。➔党員は「会議でしか意見を述べられない」と意見表明を党機関から拒否されたからである。在宅療養中では会議にでられない、自宅での草加地区委員会の開催も拒否されたなかでは、それしかなかったのである。

草加3市議除籍は、草加市党の全支部全党員の「党内問題」そのものである。また、3市議除籍は、東部南地区委員会の全地区委員による「強硬確認」の結果である。東部南地区の全行政区の支部と党員、全地区委員、議員の「党内問題」である。

●県委員会は、除籍された佐藤市議の公式ブログが9月23日に公開されてはじめて、草加市党の党員むけに「草加市議団問題について」(県内文書)を発行、これに続き埼玉県党内の全地方議員(162名)に同文書を郵送した。まさに埼玉県党内の「党内問題」として党内開示をしたのである。中嶋束は、こうした党機関の対応に対して、党内民主主義を徹底する立場から、「党内問題」としてメール送信、郵送を行ったものである。

 

こうした中嶋束の「言動」への党機関の対応は、党史の歴史的教訓に学ばず、批判者・反対者を抑圧、党外に排除する事に他ならない。除籍撤回は当然である。